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ひとしずく(牧師のコラム)                   

 ≪イエス・キリストに聴従≫   ルカ 5:1-11

 夜通し一生懸命漁をしても何も獲れなかったシモン・ペテロが、主イエスのおことば通りに網を下ろすと、網が破れ舟が沈みそうになり、他の舟に加勢を求める程の魚が獲れたという、神様の出来事⇒奇跡はあまりにも有名です。この出来事の中心主題は、弟子ペテロ達のイエス・キリストへの聴従、即ち献身であることがわかります。そして眞に主イエスに従う者には、何が必要であるのか。

 8節に「これを見たシモン・ペテロは」と、あります。一般常識では考えられないような出来事を目にしたペテロでしたが、彼は魚だけを見ていたのではありません。当時漁師ペテロにとっては、魚の有無は大げさに言って、死活問題でありましょう。生きていく上で、「必要な全てのもの」であると想定できないでしょうか。しかしペテロが魚だけを見ていたのではありません。彼はその視線を、網に群がる魚から、イエス・キリストというお方に移します。イエス・キリストに聴従する者は、このような視点の転換が必要なのです。

私たちの信じている、生きておられる神様は、祝福と恵みを惜しみなく与え給うお方であられます。けれども、私たちは神様が下さる祝福だけに目をとめていると、いつの間にかその祝福を与えて下さったお方を忘れてしまう危険性が多々あります。「のどもとを通り過ぎれば忘れてしまう」。目に見える世界の全ての背後にある神様の御手を意識し、感謝して行く時、私たちの信仰は一歩前進することができるのです。ペテロはその大魚の奇跡を引き起こしたお方は、紛れもなく神の御子であるということが分かったのです。

 次にペテロは、更に視線を自分自身に向けたのです。その時、自分が神様から遣わされた御子イエスの御前に出るということが分かった時、ペテロは自分の罪深さを思って恐れに満ち、「主よ、私のような罪深い者から離れて下さい。」と言ったのです。「私たちは神のうちに生き、動き、存在している」(使徒17:28)のであって、神の前にいることを知らずに、高慢になり、思い上がって、他人を蔑み、裁きたくなるのです。ペテロのようなこの視線の転換は、主イエスに聴従する者にとっては、大切なことです。聖なる神の御子との出会いは、自分の罪の認識と、神に対する畏れ敬いへとつながっていき、潔い歩みを好むものです。

最後に、そんなペテロに、イエス様は慈愛深く語りかけ、「恐がらなくてよい」とペテロの恐れを取り去っただけでなく、「これから後、あなたは人間をとるようになるのです」と、ペテロに新たな使命を与えられたのです。そして、ペテロは主イエスの召しに応答し、一切を捨てて主に従って行ったのです。

常にイエス・キリストに視線を向け、聴従しようではありませんか。

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